真心を込めて使ったお金には 災いを避ける意味があったのかも知れません
人生において、お金の使い方がおおよそ上手にできたと思われるなら、それはきっと「人生の達人」の候補になると思います。
お金を自分のために使うことは、ごく普通のことではありますが、自分のためにだけに使いすぎる事も出来ないのが、この世です。
生活において必要な経費や自分の未来、家族の未来のために出費を効率よく計画出来たなら、お金によって上手に生活を運営出来ていることなのでしょうが、突然の病気や怪我、突発的な何かの災いによって、生涯のうちに人々はこの様な目に何度も遭ってしまうことがあります。
生まれてから死ぬまで、大変な目に合わない人は、恐らく一人もいないはずです。
しかし今現在生きているとしたら、その方は何かの理由で生かされているということでしょう。
たとえどんな精神的肉体的悲しみや苦しみが訪れたとしても、その人は何かによって守られているからこそ、
この世に残されたと言えるでしょう。
例えば愛する人を失って、それでも生き続けなくてはならない人生の場面が、多くの人にあります。
昨日まであった幸せが突然失われて、その人の使っていたもの、大切にしていたもの、一緒に楽しい思い出を作った場所はそっくり残っているのに、ある日から「その大切な人だけがいない」という人生の場面は、少し頭の中に描いただけで、体温を取り上げられるような、生きる勇気を奪われるような日々であることだと分かります。
徳を積むという言葉はよく聞かれるものですが、徳を積むことによって様々な人生のアドバンテージが産まれてくるような気もします。
日常生活で「お金を使う」という行いの中に、徳を積む心を持ってみると、また別のものが見えてくることがあります。
例えば神社でお賽銭を奉じるとき、手水舎というところがあり、それは神が忌み嫌う、人の体や心の穢(けがれ)を落として清める意味があります。
清められた身で、本殿へお参りするためのものだといいますが、このとき水によって、手水舎で清められるのですから、「水神」という存在に感謝を捧げる心も生じます。
(水が貯められているところにお金を入れてはいけないと思います。
本来お金は多くの方々を廻っていくうちに、穢をまとってしまう事があり、その穢を水が貯められているところに入れてしまうと、人々が手や口を清めることができなくなりますので、水に触れないようなところに何某かのお賽銭を奉じるのが良いかと思います。)
その様な一つ一つの「水神」への感謝があるとき「水の災い」が生じたとき、あるいは何かのお知らせがあるかも知れません。
一つ一つの日常での「感謝の心の積み重ね」が、一番確かな徳の積み方かと思います。
何かでお金を放出しなくてはならないとき、あまり嘆くことは違うのかも知れません。
お金は本来「災いや邪気や穢れ」を帯びていると云われますので、それを放出することはもしかすると、「人生の重荷」を減らす行いでもあるのではないでしょうか。
特に神仏に対してのお金の使い方も、「心根 (こころね)」が大切だと思います。
何かに使った残りや余りのお金を、お賽銭箱に入れるのは違うかも知れません。
どこかの神社仏閣にお参りに行こうと決めたとき、そこで放出する(奉納する)お金を別に取っておいてから、それを奉じるというのが、美しい浄財であるように思えます。
小さな毎日の一つ一つの礼節は、ある日天から皆様への「大切なお知らせ」という形で、報いて下さることがあるかも知れません、
その事によってあるいは、自分の大切な方、家族、また自分自身もその生命を守り続けることが、出来るのかも知れません。
画像は青森県八戸市種差海岸です。
遠くに虹が出ていましたが、あまりはっきり映らなかったです。
それでも何か嬉しかったです。
今日のフィーリングは、DIAMANTES ディアマンテス氏の「勝利のうた」、葉加瀬太郎氏の「Angel In Sky エンジェル・イン・スカイ」、Sam Smith サム・スミス氏の「Love Me More ラヴ・ミー・モア」かな